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  • 湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々世界に知られた日本人と外国人

    湘南でヨットを楽しんだ紅花のロッキー青木: 成功の秘密はファミリーの協力

     

    湘南が大好きで鎌倉市材木座に小型ヨットを置いて楽しんでいたロッキー。
    夏になると奇抜な衣装でアメリカの大型車を乗り回す姿が懐かしくなります。
    1960年代の初めに、米国へ単身出かけて、欧米人相手にレストランビジネスを成功させた日本人、ロッキー青木。
    レストラン経営や起業を目指す、当時の若者にとって英雄でした。
    米国のマスコミはロッキーをa talkative adventurous figure(多弁で、冒険好きな人) chain’s colorful founder.(チェーン店の多彩な創立者の
    多様な行動と彼の服装を掛けた言葉) などと呼んでいました。
    第二次世界大戦の後、1950-60年代のアメリカは、戦勝国の中心国として、
    文化的にも、経済的にも世界のリーダーとなり、隆盛を極めていました。
    一方、敗戦国の日本の海外貿易は、急増しているとはいえ、輸出入合わせて100億ドルに満たない規模。
    外貨は不足し、サービス業の海外進出など考えられなかった時代。

    その時代に米国へステーキレストランチェーンを進出させたこと自体、意表をつく行動でしたが、
    ニューヨークのマスコミやレストラン業界を手玉にとり、ヒルトンのオーナーやマフィアまで煙に巻いて成功した、
    痛快な日本人は、後にも先にもロッキーだけでしょう。

    多くの若者達が彼の後に続き渡米、開業しましたが、その後、単独資本でチェーン化されたレストランビジネスを、
    数十年以上続けている業者は見当たりません。
    なぜならば、当時の創作された、誇大報道のみを情報源とした若者達にとって、
    紅花成功の秘密がロッキー青木とその両親による三位一体の見事なチームワークで成された事は知る由も無かったからです。

     

    青木湯之助氏とかつ夫人
    当時すでに、洋食屋、紅花レストランチェーンは日本橋を中心に展開し、繁盛していました。
    ロッキー青木の父親、湯之介氏とその夫人かつ氏とが、大戦後にコーヒーショップから始めたものです。
    タップダンサーから転進した湯之助氏は先進の気概のある、才能あふれる商人でした。
    彼は、戦前からの老舗洋食屋ではない紅花が業容拡大するには、米国、それもニューヨークへの展開以外には
    考えられないと、密かに渡米の機会をうかがっていました。

     

    海外旅行制限下のロッキー青木の渡米
    50年代から60年初期の日本は外貨使用の制限が厳しく、渡米できるのは輸出実績のある業者やスポーツ選手が中心でした。
    湯之助氏は長男のロッキーが所属する慶応義塾レスリング部に、協会会長を務める八田一朗氏の長男正朗氏が居るのを知り、
    八田一朗氏が率いる全米選手権へ、自分はコーチ、息子は選手の名目で同行できるよう運動します。
    当時の選手権出場選手やコーチは個人の費用負担が大きく、希望者が少なかったこともあって、希望はかなえられました。
    ロッキーも大学を中退して選手として渡米します。

     

    米国の紅花(ベニハナ・オブ・トウキョウ)
    一家の米国進出には周到なる準備がありました。
    基本コンセプトは日本と米国の文化が混在する、米国人対象のステーキレストラン。
    まず、有楽町に新業態の鉄板焼きステーキレストラン(ベニハナ・オブ・ニューヨーク)を作り、
    多数のコックを米国向けにトレーニングしました。
    また飛騨の山奥などに、地方の古民家を買い付けに行き、千葉の紅花牧場に古材を大量にストック、
    チェーン展開の店作りの準備をします。
    日本橋のレストランに近い川端の部屋で、毎日深夜まで伝票の整理をしていた、経理のベテラン、
    努力家のかつ夫人も当初から計画に参加しています。
    初の日米フュージョン料理のエンターテインメントレストランは、ファミリーが渡米して
    4年後の1964年にマンハッタンにベニハナ・オブ・トーキョウとしてオープンします。

    管理部門に強い両親に対して、ロッキーは稀代のマーケッティングマンといってよいでしょう。
    ほとんどしゃべれない英語も、彼なりに単語を並べた会話で米国人を煙に巻き、
    有力な代理店を使って、次々に独特なアイディアを実現していきました。
    蕎麦打ち、パスタ作りやピザ焼きの製造現場をデモンストレーションするレストランは珍しくありませんが、
    ステーキ調理のテーブルパフォーマンスを世界に広めたのは彼が最初でしょう。
    ナイフカット、調味料の混入、焼き方など、すべての調理過程が演出され、

    火鉢テーブル(数々のネーミングにも独自の才能を発揮しています)を取り囲んだ米国人のお客を喜ばせました。
    食器には益子焼の特注品を使用し、サラダやステーキ調理にしょうゆを使用したのも斬新でした。
    柔らかい肉を中心に、わかりやすく限定された、リーズナブルな価格のセットメニュー。
    これらアイディアの数々を、多くのマスコミに注目させて、パブリシティーを効かせた
    アメリカンマーケッティングの実行も当時の日本人としては先端をいくものでした。
    大邸宅、ロールスロイス、自家用機、パワーボート、気球、沈船のサルベージ、有名人との交際など、
    以来40年に渡り次々と登場する小道具類は、アメリカンドリームにあこがれる米国人にアピールするよう、綿密に計算されたものです。
    海外で活躍した日本人に、レストラン部門があるとすれば、そのトップに推薦できるのが、ロッキー青木とそのファミリーです。

     

     

    ロッキー青木
    1938年生まれ。本名 青木広明。慶応義塾大学 中等部、日吉高校を経て大学政治学部在学中渡米。
    学生時代よりユニークな行動と言動が有名であったが、学校の個性を重んじる教育は、その才能を矯めることはなかった。
    スポーツを愛し、中等部では陸上競技の中距離ランナー、高校時代はレスリングを楽しむ。
    デザインに特別の関心があり、特異な才能を持つ。

     

    慶応時代の同級生には日本橋タイメイ軒の茂出木氏や向島香味屋の宮台氏などがいる。
    1989年に関係会社への利益供与で株主代表訴訟を起こされた。
    訴訟を機に、持ち株会社支配に変更して、オペレーション会社からは引退している。

     

    紅花(Benihana Inc
    本社マイアミ。CEOは1982年よりJoel Schwartz氏。
    全米に54軒のステーキレストラン、18件の寿司レストラン(はる、すしどうらく)を展開する(2003年現在)。
    2002年の売り上げ 1億7千2百万ドル。レストラン利益 2千7.6百万ドル。
    純利益8.8百万ドル。ステーキ客単価 23.61ドル。年間7百万人が利用している。
    ロッキー青木が支配する持ち株会社Benihana of Tokyo が40%の支配株(Class A Common shares)を所有する。
    業績は訴訟が起こされた90年前後に一時期低迷したが、
    昨年は2000年比18.5%の売り上げ増を達成し、アナリストの評価も4星か五つ星。

    (しらす・さぶろう)

     

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