財部彪海軍大臣ファミリーの湘南(その1):
葉山と片瀬江の島を愛した元祖湘南人
古くから湘南は難病だった結核の療養地や文筆家の仕事場として著名でしたが
首都に近く、夏涼、冬暖の心地よい湘南海岸は皇族、華族、政財界人の保養地として愛され昭和時代の初めごろ10年間に別荘文化の最盛期を迎えています。
また、横須賀に鎮守府があったことから、大正時代から太平洋戦争開戦前までは海軍軍人や家族の在住も珍しくありませんでしたが一般の政財界人と異なり多くは質素な借家。
その代表的な文化人といえるのが財部彪(たからべ・たけし)海軍大将とその大ファミリーです。
質実剛健をモットーとする海軍軍人であり、政治家でもあった財部彪海軍大将のファミリーは子供が8人。
葉山町と藤沢市片瀬、鵠沼に住まわれていましたが、現在は孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)世代です。
軍縮会議が開催された1930年代は侵略による国勢拡大が過去のこととなっており、
列強には紛争を敬遠する気運が高まっていました。
すでに数多くの植民地や占領地域を獲得していた国々の独善ともいえますが、財部全権は
その世界の空気を肌で感じており、列強との資源力や科学力の差を冷静に考え、
国際協調の重要性を知る若槻礼次郎、浜口雄幸両大臣らと共に列強提案の軍縮計画に
前向きに取り組みました。
妥協できることは妥協して、会議をまとめて帰りましたが、予想通り、国際情勢、国際協調を
無視する陸軍や右翼勢力、野党の政友会が猛反発。
浜口総理は30年11月、右翼に狙撃され、手術後の回復が思わしくなく、1年もたずに逝去。
その後の政権が1940年の太平洋戦争に突き進むこととなります。
ロンドン海軍軍縮会議条約は枢密院審議を得ましたが1930年11月14日に
浜口総理大臣が、統帥権干犯と喚く(わめく)右翼青年に東京駅で狙撃されました。
1929年11月、海軍軍縮会議に向かう東京駅の列車内から、左端が財部全権.
隣は若槻礼次郎全権.右端は両全権を見送る浜口雄幸総理大臣
終戦の8月15日となると毎年様々な記録が披露されてきましたが、
関心は年々細りつつあります。
戦争を知らぬ世代がほとんどで、多少でも知る世代は82才以上。
体験し、悲惨さを知る世代となると90才以上。
高齢者が増えているとはいえ、健康長寿で、戦争放棄の必要性を後世に伝える努力を
出来る方々は多くありません。関心が薄くなるのも当然といえるでしょう.
ロハスケでは歴史を探り、戦争反対の努力をした湘南に縁のある偉人を紹介しています。
今年2022年は太平洋戦争終戦より77年
国家間の戦争は為政者が実行しますが、危険域の外側で指示する指導者たちに較べ
戦乱に直面し、受難する大多数は弱者層。
太平洋戦争末期には催眠をかけた最年少15才からの青少年に神風特攻隊、回天、伏龍など
無謀、無慈悲、無策な自爆戦法を強いる身勝手な指導者たちが続出。
いずれにせよ当事国にとって最大の悲劇必至なのが戦争。
民族の危急存亡時以外に考えてはいけないことであり、無私無偏(むしむへん)が大原則です。
残念ながら太平洋戦争は日本国家の危機ではありませんでした。
日清戦争、日露戦争の勝利で慢心が続いていた多くの指導者は
海外情報に疎く、戦後30年間の世界の科学技術、経済力の発展詳報が届きません
無知な国民を煽り、群雄割拠で内乱が続く支那大陸の混乱に乗じて1930年頃から
大陸各地の侵略を続けました。
上海事件から1937年の盧溝橋(ろこうきょう)事件、満州事変に続いたのが一連の支那事変(日中戦争)。
結局、太平洋戦争は不可避となってしまいましたが、財部彪大将はこの潮流に抗した湘南の誇りです。
戦後10年を経過するころになると多くの青少年に死を強いた太平洋戦争指導者の
軍人や政治家が、惨事の責任を忘れたかのように、社会の表舞台に目立つようになりました。